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ちむどんどん、沖縄の50年前が舞台に!その頃の沖縄の人の暮らしぶりは?

2022年3月14日

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NHKの朝ドラ「ちむどんどん」が4月11日より放送開始されます。

ちむどんどんは沖縄本島北部の50年前のやんばるを舞台としています。

沖縄料理に夢を懸けるヒロインと強い絆で結ばれた4兄妹の「家族」と
「ふるさと」の物語です。

そこで今回は50年前の沖縄とは?
沖縄の人はどんな暮らしぶり?
本土復帰になったキッカケ
本土復帰前の沖縄の状況?

などについて調べていきたいと思います。

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ちむどんどんの舞台、50年前の沖縄とは?

ちむどんどんの物語は1960年代からスタートします。

当時、沖縄はアメリカ軍の統治下。

沖縄本島北部の「やんばる地方」と呼ばれる、豊かな自然や山林の多い地域
にあるひなびた村で、サトウキビなどの農家を営む比嘉家が最初の舞台となります。

私も宮古島でサトウキビ畑をみたのですが、背の高いサトウキビが一面に
茂っていて、こんな場所で育つ子供たちはおおらかに育つのかなと思った
記憶があります。

1960年の沖縄は太平洋戦争で、日本の敗戦が宣言されてから、
1972年(昭和47年)5月15日の沖縄本土復帰に至るまでの、27年間、
沖縄はアメリカの占領統治下にありました。

主人公の比嘉暢子(ひがのぶこ)が育った頃の沖縄は、アメリカの統治下の
時代です。
【ちむどんどんについてもっと知る】
「ちむどんどん」とはどんな意味?来年のNHK朝ドラのヒロイン、黒島結菜さんの魅力は?
当時の沖縄はアメリカ軍部が沖縄に設置した琉球列島米国民政府(USCAR)の
下部組織として琉球政府が設立し、、沖縄は日本本土から分断され、米国の
施政権下に置かれました。

日本から沖縄に行くにはパスポートが必要で、通貨はドル、自動車は左ハンドルで
右側通行

街には英語があふれ、水は「アイスワーラー」で給料日は「ペイデイ」と言って
いました。

アメリカの軍人が多く沖縄には滞在したので、やはり彼らの母国での食文化
「ステーキ」が人気でありました。

そのなごりで今も多くのステーキ屋・ステーキ文化が沖縄に根付いています。

当時米軍関係者が立ち入ることの出来る飲食店には日本・アメリカ両政府に
よって定められた高い衛生水準が求められました。

晴れて水準を満たした店には「Aサイン」という認書が与えられ、店の外に
掲げられていました。

Aサインを取得するには「皿は拭かずに煮沸消毒する」といった細かな決まりを
実行する必要がありました。

それらも含め、戦後の日本にはない文化や考え方が沖縄には浸透しました。

また1960年代後半から70年代にかけ、沖縄の米軍基地はベトナム戦争の出撃拠点に
なったこともあり、米兵の数は急増しました。

戦地への往復を続ける米兵は、沖縄で音楽や飲酒などに一時の快楽を求めます。

一方、殺人や強姦、暴行、傷害、住居侵入などの犯罪は日常的に起き、
沖縄では「反米・反基地」の機運や「本土復帰」への渇望が強まり、「独立」を
声高に叫ぶ人たちも増えてきます。

本土復帰になったキッカケ

その頃はベトナム戦争への反戦世論の影響もあり、沖縄の人々は本土復帰
を訴えて抵抗運動を起こします。

国政においても、佐藤栄作総理大臣が
「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」
と述べ、日米安保条約の延長とともに沖縄返還を課題として掲げます。

1970年12月に、アメリカ軍兵士が交通事故を起こすと、これをきっかに暴動が発生。

これまで鬱屈としていた沖縄の人々の不満が爆発します。

この事件がこれ以上沖縄県をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと日米両政府が
判断することに繋がりました。

本土復帰前の沖縄の状況?

ちむどんどんのヒロイン暢子が東京に渡り、念願の有名レストランの厨房で
厳しい修業を始めたのが1972年になりますが、復帰前の沖縄はどんな様子
だったのでしょうか?

1972年1月8日に佐藤首相とアメリカのニクソン大統領が、5月15日に沖縄復帰
をすると発表しました。

米施政権下の沖縄では日本に切手が使えなかったため、1948年から72年までの間、
沖縄独自の切手が発行されていました。

沖縄の本土復帰まで1カ月を切った4月には、那覇市の郵便局前に、最後の琉球切手
を求め1万人の群衆が殺到しました。

道路は車で埋まり交通まひ。けが人数人、卒倒する人まで出たといいます。

復帰後の物価上昇を懸念し、各地で買いだめが起きました。

特に外国から輸入されているポークなどの缶詰類やソーセージ、コーヒー、
チューインガム、マヨネーズ、ミルクなどが高くなると予想されました。

個人的な話になりますが、沖縄に行ったときは必ず食べるスパムおにぎり!
*スパムとは:豚肉を使った缶詰のこと

沖縄のソウルフードであります。

復帰に伴い、県民生活に大きく影響したのが通貨です。

米ドルから日本円への切り替えは5月15日から20日まで、県内の金融機関各支店、
郵便局など190カ所で実施され、交換所は大勢の人でごった返しました。

本土復帰というのは、大きな経済(日本本土)に小さな経済(沖縄)が併合
されることを意味しています。

しかも日本は円、沖縄はドルと使用通貨が異なる。

日本が変動相場制に移行し円が強くなる中での
「本土復帰=経済統合」
は、併合される側にとって二重三重の負担となったことでしょう。

1965年を100とする那覇市の消費者物価指数はニクソン・ショック(1971年8月)
前の7月に137.5だったが、12月には144.8に上昇。

さらに復帰後の72年6月には1カ月前に比べて食料品が13.6%、光熱費が17.8%
上がっています。

琉球銀行調査部(当時)が84年にまとめた大作『戦後沖縄経済史』は復帰時の混乱
をこう評しました。

「ドル価値の大幅下落を伴った(円とドルの)通貨交換は物価の高騰
を惹起して一般消費者を圧迫し、あるいは多方面にわたる経済社会不安
をかもし出すなど、沖縄経済に与えた影響は計り知れないものであった」

またその頃のうわさでは
「日本に復帰したら雪が降る」

と今から考えると信じられない話が広まっていました。

社会が大きく変わることを、「暖かい沖縄で雪が降るくらいの変化」に
例えた大人たちの冗談の言葉を納得している子供たちが多かったようです。

それぐらい沖縄にとっては本土復帰は沖縄県民にとってインパクトのある
出来事だったのです。

その後、無事本土へ返還された沖縄ですが、終戦から27年もの間米軍の
施政権下におかれていたので、日本政府から十分な支援を受けることが
できませんでした。

その為、復帰当時の沖縄は、道路、港湾、学校、病院、住宅などのインフラが
しばら不足する状況が続きます。

そんな状況下の中でちむどんどんの物語は展開していくのです。

まとめ

今回は50年前の沖縄とは?
沖縄の人はどんな暮らしぶり?
本土復帰になったキッカケ
本土復帰前の沖縄の状況?

などについて調べてきました。

かつて3K(基地、公共事業、観光)と言われた沖縄経済ですが、現在は観光が
主力産業に成長しています。

日本最大規模の美ら海水族館で見るジンベエザメは本当に雄大です。

一度は観にいかれることをお勧めします。

いろんな諸問題を抱える沖縄ですが、これからも観光で沖縄の魅力をさらに
パワーアップしてほしいと願います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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  • この記事を書いた人

ダッチさん

ブログ歴1年5ケ月、206記事のアラフィフ親父。 1年目は収入0 最近になってブログが収益化できるようになってきました。 本業は保険の営業を27年間。 世の中のトレンドを中心にドラマや映画関連のことをブログに書いています(^^) 日々のブログの実践で実績があったことを含め、皆様方に役にたつ情報をツイートしていきます。

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